来夢来人の彩回想録

大人の色事の思ひで、回想録、考察etc.

西川口流

身体が先?
心が先?
どっちでもいいじゃん
纏まって愛になれば





西川口・・・・
ここは自分にとって聖地?性地である(笑)
ここで初めて風俗の経験をしたし、色々の種類の風俗お遊び初体験がこの地であり。目白おしにある。
全てのお遊びに於いて最後まで楽しむ事で来てるし極端な嫌な想いをしたことがない
またそれだけ、一時の間ではあるが沢山の女性との出逢いがあり
出逢った女性のその女性がもつ表情や仕草、言葉など、かなり時間を経た今でも
鮮明に思い出されたり、その逆もあり・・・・・?と、今でもあの熱かった街をたまに思い出していたりするのだ。
感慨深くこの西川口は終生忘れえぬ地であり続けるであろうと思う。


ここは今はその活気がすたれてソープ街としての風俗の街として名残りを残しているが
過去には「西川口流」という言葉を生み出し、西川口流のお店が東口、西口どちらにも
数多く点在し、ソープ店と含め大変賑やかだった。この西川口流は財布に優しく、若い男性から老人に至るまで足を運び、繁盛店は平日夜でも指名なしのフリーでも20、30分待ちもあったのを思い出す。そして
地元埼玉の人だけなく都内、地方からも遊びにくる男性が多かったんじゃないかと思う。
その全盛の頃は埼玉方面の気軽なお遊びはここ西川口、横浜方面は黄金町?だったような気がするのだが、自分はそちらに行ったことがないので何とも言えないのだが・・・
この西川口は都内へ通う人々のベットタウン、鋳物の街として表向きの顔の街なのだが
周辺は川口オート、戸田競艇にも近い位置にある町であり、京浜東北線通過するとても立地の良い所で、サラーリーマンが帰宅途中に。学生がお遊び代が安いので足を運びやすかったし、また、ギャンブルで儲けた金をこの西川口で飲む、買うという事に使うといった夜の街としての顔も持ち合わせており、男にとっては三道楽を気軽に手軽に行える街でもあったのだ。ギャンブルに勝てばキャバクラでお姉さんと話をし飲んで、勢いでソープの勝者コース(笑)
負けても手軽な立ち飲みからの西川口流の敗者コースで、勝ちの喜びも負けのうさも晴らせる天国でもあったのだ。それだけ、飲み屋もニーズに合わせた店が沢山軒を並べていたし、焼き肉店も多いのが西川口繁華街の特徴であった。


この西川口流というのは要は簡単にいうなら「チョンの間」のことであり、30分ほど個室で男性が女性に最後までお相手してもらう形式のお遊びである
西川口流は15年ほど前までは存在してたのだろうか・・・・
西川口では30分前後で8000円位で遊べた記憶がある。
広告でこの西川口流をうたい、多くの男性たちをこの地に向かわせた。西川口流は最後までの出来るという暗語の意味使われて、それを知ってる男性たちはそれを目的に男たちはこの地を目指したし、女の子の間でも稼げるという噂からこの地に女の子も多く仕事する為に集まり、そして若い子も多く、人気店には集中的にその若い子達がが集まり、店側も更に雑誌や新聞に三行広告を打ち、また口コミ、そして夜の街の顔としてのバブル時代の名ごりもまだまだありそれらが加味され男も女もこの地に集まりとても賑やかだった。当然繁華街には呼び込みも多く、町を訪れるといつも声をかけられたものだった。
基本、このような活況状況が、西川口ではよい意味での循環に働いたので悪質な店も少なく悪い噂を聞いた事もなかった。しかし完全ではない。ばばあが出てきて損したというのはどこでもある話でここでも勿論あったのだが。
それでもそういう人ははしごしたし、それができる値段の安さもここにはあったのも事実なのだ


だいたい店は個室割烹、個室サロンという名目になってあり、中に入店するとすぐプレイ代を支払う。プレイ相手の選び方は、3とうり。ポラロイド写真をみせられ選ぶか、フリーで入るか、過去に付いたことのある女の子を指名するやり方で指名料は1,000円位。薄暗くペンライトで案内されないと先に進めないような感じの店内がほとんどだった感じなんで、ポラロイドよく解らずはあんまり宛にはならなかった(笑)ついてみて解るよの世界。
部屋は和室の個室みたいな感じでベニヤなどで仕切り、引き戸は完全にしまらずこぶしが入るくらい開けられている、この隙間はだいたいどこの店でも同様なっており、聞く所によれば女の子の危険があったときに直ぐに対処できる意味での隙間なんだとか。部屋の中には小さなちゃぶ台と座布団二枚とメニューとティッシュボックス1箱と小さな小箱。店内は有線放送のはやりの音が大音量で流れている。


はたまた、あるお店では宴会の広間みたいな所を屏風みたいなので何区画かにしきり、ちゃぶ台とメニューと個室同様の物が並んでいるのだが、となりの様子丸見えだったりと・・・こういうところは1000円ほど安くなってたりした。


で、個室タイプでも広間タイプでも案内されたら、ちゃぶ台を前に座布団に座り、待ってると女の子が麦茶を一杯もってきて手渡され軽く挨拶、おしゃべりして、Tシャツ、靴下脱がず、その他は脱ぐように言われ、座布団2枚を敷き、プレイ相手も中途半端に脱いでの、帽子をかぶりプレイというものだった。この中途半端に脱ぐのはなんか警察の手入れが来た時の対策らしく、最後まで自分はこの中途半端な理由は解らなかった。


自分がいつも遊びに行くとフリーで入ってもだいたい若い子が多かったし自分も似たような年齢であったのでお互いにそんなにプレイを単純に楽しむといった感じが多かったと思うし、話を聞いても借金の話とかは聞こえてはこず、気楽だし稼げるからといった内容が多くて悲壮感はなかった。でも週末は休む暇がないとかも聞いたりした思い出があるし、自分自身も色々と良い思いもしたし、単純に楽しかった事を思いだす。


善きにしろ悪きにしろ当時西川口の夜はいつも男たちが遊びに集まり、西川口流の店が多かった駅前は活気にあふれていたのだが、そのうち町の浄化作戦などにより
西川口流を唄う店は摘発の対象になり、また営業をできない状況に追い込まれ次第に
姿を消し、「西川口流」という言葉も消えて言った。これもほんのちょっと前のお話である






愛について考える

男と女は
平行線
付かず離れず
レールのごとし








本日のお題は単純に愛という言葉というか、日本人になじみ易い漢字の観点から
考察と自分の意見を取り入れてお話をしたいと思う


漢字の愛は基本3つの部分から成り立っており、受けるという部分の又を抜いた部分+心
+久という部分。久しいではなくホントは違うのだが変換出し方が解りません・・・
受けの方は頭を表現し思う人へ振り向き様子をうかがう意味を表し。心はそのままに
心を表現し、久は人間の足を表現しているそうで、つまり一人の人間が思いを寄せるひとへ立ってその人を身体を向けその人を思い、想い、考え、心を配るという意味をなしてるそうで、その個人が心身共にその人へ注目してる艇である。


まことに漢字の意味はとても深いし面白いと常々思う。一文字に意味がある文字は基本漢字のみで世界にある文字は基本単語を好きな区とも2~3文字組み合わせて初めて意味をもつのでそこに中国5千年の奥深さを感じる。「目=め」と、突っ込みはしないでいただきたい(笑)


さて漢字の成り立ちのお話はここまでにして、この愛という言葉はとても勘違いされて使われちゃいないのかいな?自分は思うのである
「愛してる」と言われれば好きでいてくれていつも楽しい、幸せな状態しか思い浮かばないし、それが続くと思っている。
しかしである。愛には常に愛は裏返しとかいわれて、それに合わせた表現として愛憎劇という言葉が生まれてきて、普通に使われているんだが、
自分はここでおいおいと思うのである。
愛という字は相手に向かいその人を思う事だろ?思うって好きだけとかじゃないでしょ?嫌いとかもあるんじゃなかろうかと・・・
常に物事は表裏一体だし、いいところだけピックアップした使い方をされてる「愛してる」という使われ方はいかがなものかと思うのである。
英語にも言えることでラブとヘイトという言葉で同じような使い方してるな・・・・
そしてライクとう言葉もあるな・・・(笑)



という自分の観点からいえば相手を恨む、憎しむ事も愛ということである


確かに相手を悪い意味で思う事であるがこれも愛と言えると思うし男と女はいつも好き好きでないし喧嘩して嫌いになることもあるであろうし、普通な状態もあるだろう
人に愛してると伝える時に好きな部分嫌いな部分を両方兼ね備えて考えてみることも
必要なのでは、それをすることで、後々にある、こうじゃない、違うとかという言葉が
すくなくなるんじゃないだろうか?


では愛の終わりは?


自分の観点で言えば
思ひでになったとき、好き嫌いという感情の執着消えたとき、人にその恋を話せるようになった時だと思う


動物みて我がふり考えよ

男は女の影
女は男の影
重なり離れ
空に浮かぶ
浮浪雲



毎日、何を書くかを仕事中に思案してるわけではないのだが、
書くこと、書きたい事は常に浮かんではどこかに消えて、他のが浮かんでの
毎日なんだが、色事、男と女の事でまあ、まぁ飽きずに枯渇せずに出てくる


そして誰かに話せる状態ではないし、相手もいない。そんな毎日であるが
普段は普通の会社勤め人として、基本一人きりで仕事してるのである意味
通常の人達よりも思索が出来るのだろうが、反面寂しいという裏の辛い面もあり
何とも言えないのだが



今日のお題は「動物みて我がふり考えよ」なんだが
ここには、人が通常に暮らす上での過程で起る諸問題やわんさか見受けられるのである。


なんで人は浮気するのか?なんで差別があるのか?etc .と簡単に2点だけ取り上げたが
有りとあらゆるものが動物たちの生態から見て取れるのである。


もう少しわかりやすく言えば、絶滅したマンモスはどうゆう生活をしていたかを考えた時に今存在している、アフリカ象やアジア象の生態を観察して想像を付けるやり方があるのだが、それを人を単なる動物という立場に置き、似た動物である類人猿や広くは哺乳類まで広げて観察してそこからにとの生活上で起る行動を観察していくやり方である。


色事に絡めて僕は楽しみたいので、ちょっとお題とは違うが面白い話をしたいと思う。



恐竜の代名詞といえば、ステゴザウルス、トリケラトプス、そして、ティラノザウルスであろう。
ここでの主役はティラノザウルスだ。
あのでかい身体に似合わず、あの小さい手、あれで物をつかむことや何かをすることは基本できないのは誰でもわかるだろう。ではなんで退化することなく小さくても残ったのだろうか?
正解は、交尾の時にメスを愛撫するためだっただろうといわれてるだ。


これも現代に生き残る爬虫類から推測され導き出された一つの説であるのだが
その爬虫類とはニシキヘビだったかの生態、交尾の様子から導き出された説である。


ニシキヘビには手だか足が退化した爪のようなものが残っており、普段は使わずに
交尾の時だけ、活躍しメスを愛撫して交尾をするのだとか・・・



これらのように動物を観察することで人間の本能的生態とそれをなんとかする
人としての感情、思考が垣間見えてくるのだ。


今回はここまでに。